CIVIL CASE / 8th HEARING
甲第136号証
原告陳述書
PLAINTIFF'S STATEMENT / EXHIBIT KOU NO. 136 / MAY 18, 2026
甲第136号証 陳述書
令和8年5月18日 原告作成
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甲第136号証
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陳述書 名古屋地方裁判所 御中 令和8年4月16日 原告 原告X 私は、本件訴訟の原告である原告Xです。以下、私が被告・社会医療法人名古屋記念財団の運営する名古屋記念病院で勤務していた当時の業務内容、職場環境、上司らから受けた言動、発病に至る経緯、そのとき私が感じていたことについて、私自身の体験に基づいて述べます。 1 私の経歴と病院での勤務 私は昭和63年〇月〇日生まれで、平成24年3月に岡山大学大学院保健学研究科放射線技術科学分野を卒業し、同年4月に名古屋記念病院へ診療放射線技師として入職しました。入職後は放射線部に配属され、レントゲンやCT等の検査業務に従事することになりました。私は平成24年7月から夜間休日等の待機勤務、平成25年1月から宿日直勤務も担当するようになり、同時期からCT専従者としての研修を開始し、平成25年7月からCT専従業務に従事するようになりました。 当時、病院にはメインの64列CTとサブの16列CTがあり、私は主として64列CTを担当していました。64列CTでは、心臓領域や整形領域など、一定の研修を終えていなければ対応できない検査も多く、責任の重い業務でした。平成27年当時、64列CTを完全に扱えた者は限られており、私が日勤帯の中心的な担当者でした。 私は入職当初、診療放射線技師として病院に貢献したいという気持ちが強
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く、業務そのものに誇りも持っていました。CT専従者に選ばれたことについても、当初は期待に応えたいという気持ちがありました。しかし、実際には、担当する業務量、求められる件数、上司からの指導のあり方、夜間休日勤務の負担、そして職場の空気が重なり、次第に強い精神的圧迫を感じるようになりました。 2 放射線部の職場環境と上司からの指導 私が特に強い心理的負荷を受けたのは、上司である病院関係者Aや病院関係者Jからの継続的な指導、叱責、侮辱的発言でした。病院関係者Aは、私に対し30分ないし40分に及ぶ長時間の指導を日常的に行っていました。しかもその指導の場で「馬鹿かお前は」「たわけか」「アホ」などの言葉を繰り返し用いていました。さらに、「あぁん?」という巻き舌で威圧するような言い方や、「何年目だ」「何年この仕事をしているんだ」「新人でもできている」といった侮辱的な発言も頻繁にありました。 私に対する指導は、周囲の開けた放射線部内のソファーのある場所や16列CTの前など、人目のある場所で行われることが多かったです。ミスをした翌朝に朝会議で報告や謝罪を求められることもありました。原告準備書面(4)で朝会議時に報告を求められていたことを主張したところ、このことは被告も認めています。私はその場で「部署の信頼を傷つけ申し訳ありませんでした」といった趣旨の謝罪を求められていました。 このような指導を受けるたびに、私は単に「注意されている」のではなく、人格そのものを否定されているように感じていました。医療現場ではミスが許されないことは理解していますし、必要な指導があることも当然だと思っています。しかし、私が受けていたものは、改善のための指導というより、恐怖や
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屈辱を与える形の叱責でした。私は、ミスそのものへの反省以上に、「また怒鳴られるのではないか」「また皆の前で言われるのではないか」という不安を常に抱えながら働くようになりました。 また、病院関係者Jからも、「医療従事者失格だな」「お前は技師長の期待を裏切っている」「病院関係者Bさんはこんなに頑張っているのにお前は」「お前は感覚が普通の人と違う。価値観がずれている」といった、私の人格や資質を否定するような発言を受けました。これらは、単発のものではなく、ミスやトラブルのたびに積み重なっていきました。私は、職場の中で自分の存在価値が否定されているように感じ、徐々に自信を失っていきました。 3 CT専従業務の負担と達成困難なノルマ 私が担当していたCT業務には、非常に高い件数目標が課されていました。準備書面(2)で指摘したとおり、発病から6か月前の認定基準でいう「評価期間」中、CT全体で毎月1902件ないし2136件の業務目標が設定され、そのうち私が主に担当していた64列CTの目標は1461件ないし1681件でした。 また、全国統計との比較でも、私に課されていた業務目標や実際の撮影件数は極めて高水準で、準備書面(2)では、原告個人に課せられたノルマは全国平均の2.6倍ないし3.0倍であり、実際の撮影件数も平均的診療放射線技師の複数人分に相当すると主張しました。 訴状でも、私に求められていた撮影件数は兵庫県病院平均の2倍超、全国平均の約3倍以上であったことや、これに加えて医学物理士資格の取得要請、CTC読影スキルの習得課題、CT被ばく線量の再検証作業なども課されていたと主張しています。実際に本当にノルマも多く、大変多くの件数の業務をこなしていました。この件数は明らかに過剰でした。しかも単に件数をこなせばよい
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のではなく、心臓領域や整形領域など難しい検査、造影検査、時間に追われる救急対応も含まれていました。毎日の朝会議では件数報告が求められ、未達成の際には改善提案書の提出も求められました。原告準備書面(4)でこのことを主張したときに、被告が「ノルマではなく目標」と主張して反論しました。けれども、毎朝の達成状況報告、不達成時の改善提案の提出、逐次の目標引上げなどがありましたから、実質的には達成義務のある数値目標でした。 私自身、平成27年5月に件数目標を達成できなかったとき、業務改善提案書の提出を求められ、「これ以上どうすればいいのか」と感じました。すでに日々限界に近い状態で働いていたからです。私は、患者の安全を守る医療従事者であるはずなのに、気がつけば「件数を落とせない」「未達成だとまた言われる」というプレッシャーに追われ、毎日、精神的にすり減っていました。 4 長時間労働、宿日直、待機勤務、連続勤務 私の業務負担は、日中のCT業務だけではありませんでした。甲111号証、甲125号証、で、発病前6か月の時間外労働は、待機時間を含めると月90時間21分から158時間47分、待機時間を含めなくても月54時間59分から117時間43分に及びます。 私は夜間休日の待機勤務や宿日直勤務も担当していました。待機勤務中は飲酒が禁止され、連絡を受ければ30分以内に病院へ到着しなければならず、行動範囲も大きく制限されていました。しかも、評価期間中19回の待機勤務のうち9回、それ以外でも1回呼び出しを受けており、実際の拘束性は強いものでした。訴状でも、待機勤務の実際の拘束性が強かったことを主張しましたが、実際にその通りだったのです。待機人数は一人でしたから、私が、必ず対応しなければなりませんでした。呼ばれる理由も、心筋梗塞、脳梗塞、急性膵
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炎が主な理由でした。いずれも緊急に撮影をして、診断を確定させ、処置をしなければならない病気です。ですから、呼び出しがあったときには、直ぐに行かなければならないという緊張感を持って待機をしていました。 また、宿日直についても、被告は「労働から解放されている」かのように主張しているようです。けれども、当直許可書があっても使用者の指揮命令下にあること前提となっています。日曜祝日に日直から続けて当直を行っていました。 私の実感として、宿日直中に完全に休める感覚はありませんでした。いつ呼ばれるか分からず、緊張は切れませんでしたし、実際に検査や対応が入ることも少なくありませんでした。私の検査や対応に入ったいわゆる労働密度については、甲24号証の18頁から19頁に書いたとおりで、当直許可書の不許可となる事例の23.4%の労働密度を下回った日はありませんでした。 さらに、私は平成27年1月5日から1月17日まで13日間連続で勤務し、3月にも連続勤務状態がありました。訴状では、1月11日から12日にかけての24時間拘束のうち11時間10分の実労働があり、3月8日から20日についても短時間勤務を含む連続勤務が成立すると主張しました。これは事実です。 この時期の私は、疲労が取れないまま次の勤務に入り、頭がぼんやりし、気力だけで動いているような状態でした。休日であっても待機や呼び出しの可能性があり、「休んだ」という感覚を持ちにくかったです。 5 病院関係者Bの休職による業務の集中 平成27年1月19日から3月31日までの間、病院関係者Bが休職し、私が64列CTの検査を一人で担う状態になりました。この状況は「複数名で担当していた業務を1人で担当するようになった」にあてはまります。業務内容・業務量が増加し、相談や休暇取得も困難になりました。
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この時期、私は単に件数が多いだけでなく、「誰にも頼れない」という感覚を強く持っていました。それは応援を要請しても「一人で何とかしろ!」と言われ続けたためです。CT業務は専門性が高く、誰でもすぐ代われるものではありません。そのため、自分が休めば業務が回らない、自分が止まれば現場が止まるという感覚がありました。私は常に切迫感を抱えて働いていました。 6 放射線漏洩問題と改修拒否 私にとって非常に大きな心理的負荷になったのが、64列CT室の鉛ガラス窓からの放射線漏洩問題です。訴状で、病院では法令上の施設基準である3か月あたり1.3mSv以下を満たすべきところ、漏洩線量は3か月あたり4.0mSvであったと主張しています。 準備書面(3)でも、令和2年8月5日の測定動画に基づき、線量率測定値は約7.8μSv/hで、これを3か月換算すると3.9mSv/3か月となり、施設基準を満たしていないと主張しています。 私がこの問題に気づいたのは平成27年3月中旬でした。私は、担当していた64列CT室の鉛ガラス窓が、もともとCT室用として設計されたものではないことを病院関係者Hや病院関係者Jから聞かされていました。半年に一回、漏洩線量を測定するのですが、建築設計上、放射線漏洩はあり得ないことなので、JIS規格や行政通達に基づいた水ファントムによる測定ではなく、ポリタンクに水を入れただけの簡易測定が組織慣行として行われていました。その際には漏洩線量は確認できませんでしたが、病院関係者Jはこの測定方法を問題視しており、私に自分の担当装置だけでも正しい測定方法で行うように指導しました。そして平成27年3月に病院関係者Mが漏洩線量測定に来た際に、私が正しい測定方法として水ファントムをセッティングし測定しました。その
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時、初めて部署として漏洩線量の問題を認識しました。そのため、病院関係者Aに対し、鉛ガラス窓を修繕してほしいと相談しました。ところが、私は「修理期間の収益がなくなるだろう」「そんなこと上に言えるか」と言われ、さらに私自身の被ばく線量が法的上限を超えていないことを理由に、「問題ない」という趣旨で取り合ってもらえませんでした。 私はこのとき、強い恐怖と絶望感を覚えました。自分が働いている場所が安全ではないかもしれない、そのことを上司に伝えても収益の話で退けられる、しかもその状態で今後も撮影業務を続けなければならない。医療従事者として、患者を撮影しながら、自分自身も安全でないかもしれない場所に立ち続けることに、大きな不安と罪悪感がありました。 この問題は、単なる設備不良ではなく、私にとっては「危険を知りながら働かされている」という感覚を伴うものでした。そのため、私は単に被ばくへの不安を抱いただけでなく、「このまま業務を続けてよいのか」「法的にも倫理的にも問題があるのではないか」と考えるようになり、精神的な追い詰められ方が一段と強まりました。 7 違法・不適切行為への加担を強いられている感覚 私が強く追い詰められていった背景には、単に忙しいとか、叱責がきついというだけではなく、「違法又は不適切なことに自分が関わらされているのではないか」という感覚がありました。訴状及び準備書面で、CT撮影者の改竄指示、不正会計、放射線漏洩状態での撮影継続などが「業務に関連し、違法な行為や不適切な行為等を強要された」に当たると主張しています。 私自身、医療職として、法令やルールに沿って安全に業務を行うべきだと考えてきました。そのため、もし施設基準を満たしていない状態で撮影を継続し
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ているのであれば、それは患者に対しても、自分に対しても、そして制度全体に対しても重大な問題であると思っていました。上司に相談しても改善されず、それでも現場では撮影が続き、しかも件数目標まで課される。その状況の中で、私は「自分は何をさせられているのか」と考えるようになりました。 この頃から、私の中では、単なる業務上のストレスではなく、逃げ場のない重圧感や、現場にいること自体への強い苦痛が蓄積していったと思います。 8 平成27年7月のコードホワイト対応とその後の叱責 平成27年7月8日深夜、私は宿直中に、院内暴力事案の緊急呼集であるコードホワイトに対応しました。このコードホワイトは、院内で暴力事案が発生した際に男性職員が駆けつける運用であり、私は平成27年7月8日23時30分頃、宿直中にその呼集を受けて現場に向かいました。 これは、私にとって初めて経験するコードホワイトでした。夜間で男性職員が少ない時間帯でもあり、無視することはできないと思って、私はすぐに現場へ向かいました。現場に到着したときには、すでに事務職員1名が殴られており、看護師がその対応をしていました。私は、警備員や宿直の臨床検査技師とともに、暴れている男性と少し距離を取りながら取り囲み、興奮を抑えようとしました。 その男性は、待合の椅子を蹴飛ばしたり、会計カウンターを叩いたりしており、いつ怒りの矛先がこちらに向くか分からない状態でした。私たちは、「落ち着いてください」「殴ったらだめですよ」といった言葉をかけながら、その場の興奮が収まるのを待つしかありませんでした。結局、この対応は50分から1時間程度に及びました。 私は、このとき非常に怖かったです。医療職として患者対応には慣れている
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つもりでしたが、暴力事案への対応について特別な訓練を受けたことはありませんでしたし、現場に向かう時点では、相手がどの程度興奮しているのか、凶器を持っているのかも分かりませんでした。しかも、病院には、私たち医療従事者がその場で自分の身を守るための十分な保安用具もありませんでした。 私にとっては、このコードホワイト対応自体が大きな心理的負荷でした。 単に「少し怖い思いをした」という程度ではなく、自分が殴られるかもしれない、何かあっても十分に守られないかもしれないという恐怖の中で、長時間その場に居続けたからです。しかも、これは通常の放射線業務とはまったく性質の異なる緊急対応でした。 さらに、私にとってよりつらかったのは、その後の扱いでした。平成27年7月13日、私は、コードホワイトの報告が漏れていたことを理由に、病院関係者A及びJから指導を受けました。その際、病院関係者Aから「将来部下を付けることはできない」「部会も下のものが出た方がマシ」といった発言を受けました。 私は、初めての暴力事案に対応し、恐怖を感じながら長時間その場にいたにもかかわらず、その経験について労われるどころか、報告の不備を理由に強く責められ、自分の資質や将来性まで否定されるようなことを言われました。 そのとき私は、「危険な思いをして対応しても、結局自分は守られない」「何をしても責められる」という気持ちになりました。 このコードホワイト対応とその後の叱責は、平成27年7月中旬の発病推定時期の直前に起きた出来事です。7月8日にコードホワイト対応し、7月13日にその件での叱責をうけ、7月16日に泣き崩れと幻聴の認知という流れです。 私にとって、この一連の出来事は、当時すでに限界に近づいていた精神状態
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をさらに追い詰めた、非常に大きな出来事だったと感じています。 9 発病前の私の状態 私は平成27年7月中旬頃から幻聴や考えがまとまらない症状が出現し、平成28年4月1日に植田こころのクリニックを受診し、同年6月上旬に統合失調症と診断されました。 私の実感としても、平成27年春から夏にかけて、明らかに自分の心身の状態がおかしくなっていきました。 もともと私は仕事に対して責任感が強い方でしたが、この頃には、仕事に行く前から強い緊張感があり、勤務中も常に焦りや不安を抱えるようになっていました。ミスをしてはいけない、件数を落としてはいけない、上司を怒らせてはいけない、でも業務量が多すぎて追いつかない、そのような状態が続いていました。 また、平成26年末には小腸閉塞で入退院しており、退院後もしばらく腹痛が続き、体調が万全ではありませんでした。 私は、身体的にも完全に回復しないまま、CT専従業務、宿日直、待機勤務、件数目標、上司からの叱責にさらされ続けました。その結果、徐々に思考がまとまりにくくなり、幻聴のような症状も出るようになりました。 今振り返ると、私はかなり早い段階から限界を超えていたのだと思います。しかし、当時は「自分が弱いだけではないか」「自分がもっと頑張れば何とかなるのではないか」と考え、無理をして働き続けていました。 以上が、私の発病に至るまでの主な経緯です。私は、長時間労働や過密なCT業務だけでなく、上司らからの人格否定的な叱責、達成困難な件数目標、連続勤務、放射線漏洩問題、コードホワイト対応、違法又は不適切な行為に関与さ
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せられているのではないかという強い不安の中で働かされ、その結果、精神的に追い詰められ、統合失調症を発病するに至ったと考えています。 10 精神科受診と統合失調症の診断 私は、平成27年7月中旬頃から、はっきりと自分の状態がおかしいと感じるようになりました。 当時、仕事中に考えがまとまらなくなったり、いつもしている集計操作の方法が急に思い出せなくなったりし、その場で泣き崩れたこともありました。準備書面の時系列表にあるとおり、平成27年7月16日に、私がいつも行っていた集計操作方法を思い出せずに泣き崩れ、初めて「死ななきゃね」という幻聴を認知しました。 当時の私は、単に疲れているとか、落ち込んでいるという程度ではない異常を感じていました。頭の中で考えがまとまらず、自分の意思とは関係なく言葉が入ってくるような感覚がありました。しかしその一方で、まだ仕事を続けなければならない、自分が弱音を吐いてはいけないという気持ちも強く、すぐに精神科にかかることができませんでした。 その後、平成28年4月1日に植田こころのクリニックを受診し、同年6月上旬に統合失調症と診断されました。 この診断を受けたとき、私は大きな衝撃を受けました。一方で、「やはり自分の状態は普通ではなかったのだ」と納得する気持ちもありました。長く続いてきた緊張、恐怖、不安、思考のまとまらなさが、病気として説明されたからです。 11 病気を病院に報告したこと
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私は、統合失調症と診断された後、平成28年6月に病院関係者Aに対してそのことを報告しました。 私としては、自分の病気のことを上司に伝えるのは非常に勇気が必要でした。精神の病気について偏見を持たれるのではないか、もうまともに働けない者として扱われるのではないかという不安があったからです。それでも、今後も働き続ける以上、病院には知っておいてもらう必要があると思い、意を決して伝えました。 この時、病院関係者Aからは「仕事を辞めるか、隠して続けるかのどちらかだ」と言われました。 私が病気を報告するまでは病院関係者Aは忙しくても業務をほとんど手伝っていませんでした。病気を報告した後、病院関係者Aの対応には以前と比べて変化がありました。少なくとも、それまでのような一方的な圧迫や叱責とは少し異なる面が出てきたように思います。しかし、だからといって、それまでに私が受けてきた精神的苦痛が消えるわけではありませんでしたし、発病後の私に対して業務上の十分な配慮がなされたとも思っていません。 12 発病後も勤務を続けたこと 私は、統合失調症を発病した後も、すぐに休職したわけではなく、その後もしばらく病院で勤務を続けました。病院側は少なくとも平成28年6月には私の病気を認識し、遅くとも令和2年9月には私の提出した診断書を受けとっていました。私は、病気になったからといって簡単に仕事を辞めるわけにはいかないと考えていました。生活のこともありましたし、何より、これまで自分が積み上げてきた診療放射線技師としての仕事を失いたくありませんでした。また、当時の私は、薬を飲みながらなら働けるのではないか、何とか持ちこたえ
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られるのではないかという思いも持っていました。 しかし、実際には、発病後に働き続けることは容易ではありませんでした。 ただでさえ発病前から過重な業務や心理的負荷によって追い詰められていたのに、そこに精神疾患そのものの症状が加わったからです。私は、表面上は勤務を続けていても、内心では常にぎりぎりの状態で働いていました。 平成28年9月頃には、私は、他の人の話し声を聞かなくてもいいように、休憩場所を第三豊郷ビル407号室へ変更し、昼の電話番を免除されるようになりました。 このこと自体、私が通常どおりの勤務をすることに負担を感じていたことの表れだったと思います。 また、平成29年3月にはCT専従業務従事者としての任期が満了しました。 私は、CT業務そのものが自分の発病に大きく関係していると考えていたため、その任期満了は一つの区切りではありました。しかし、病気自体が治ったわけではなく、職場で受けた影響が消えたわけでもありませんでした。 13 病院関係者Aの死と、その後の思い 平成29年6月17日、病院関係者Aが急死したと知らされました。私は当時からこれが事故や病死ではなく自殺である旨を感じ取っていました。それは遺族が病院関係者の葬儀への出席を拒否していたためです。 このことについて、私は非常に複雑な気持ちになりました。病院関係者Aは、私にとって、最も強い心理的負荷の原因となった上司の一人でした。私は病院関係者Aから長年にわたり強い叱責や威圧的な指導を受け、そのことが発病に至る大きな要因になったと考えています。他方で、病院関係者A自身もまた職場の中で経営陣から課せられた数値目標や放射線漏洩に伴う不正請求の可
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能性など、大きな負担や葛藤を抱えていたのではないかとも感じました。 だからといって、私が受けた苦痛がなくなるわけではありません。むしろ、病院関係者Aが亡くなったことで、私が受けてきたことを直接確認することが一層難しくなった面もありました。私は、病院関係者Aの死に対して軽々しいことを言うつもりはありませんが、自分がその下で働き、実際に追い詰められていたことは事実であり、その事実は変わらないと思っています。 14 労災請求を考えるようになったこと 私は、その後も通院と服薬を続けながら勤務していましたが、次第に、自分の病気は明らかに業務に起因しているのではないかと考えるようになりました。令和2年2月7日に職員相談の窓口である病院関係者Rに対して労災請求を検討している旨を相談し、令和2年7月には病院関係者Gに対して、不正会計をやらされていたことや労災請求を考えていることを相談し、令和2年10月には労働基準監督署へ療養補償給付請求をしました。 私が労災請求を考えるようになったのは、単に病気になったからではありません。これまでの働き方、CT専従業務の過重さ、上司からの継続的な叱責、違法又は不適切なことへの関与を強いられている感覚、そうしたものが積み重なって発病したという認識が、自分の中で次第にはっきりしてきたからです。 また、病院関係者Aからやらされたと私が認識しているCT撮影者改竄の不正会計の問題も、私の中で非常に大きな負担になっていました。令和2年9月頃に病院関係者Lへ内部告発したい旨の連絡をしました。令和2年10月5日に病院関係者Lとの二者面談で告発書類を提出しました。令和2年12月4日に病院関係者Lから私に対し、故意かはわからないけれども撮影者を改ざんして不正な会計をしている事実を認める発言がありました。
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私は、長い間、自分がそのような不適切な行為に関わらされていたことについて強い罪悪感を抱えていましたし、それを病院がどう扱うのかにも大きな不安を持っていました。 令和2年9月には、私は病院へ診断書を提出し、精神障害者福祉手帳3級を取得しました。 少なくともこの時点で、病院側が私の精神障害の存在を正式に認識していたことは明らかだと思います。それにもかかわらず、十分な負担軽減や健康配慮がされたとは、私には思えませんでした。 15 病院側との摩擦と不安の増大 労災請求や不正会計の問題を病院側に伝えるようになってから、私は、病院との関係にさらに強い緊張を感じるようになりました。悪化に関する「上司とのトラブル」として、労災請求に対する病院の妨害行動、病院関係者Gとの口論、不正会計の隠蔽の可能性を感じていました。 私にとっては、病気を抱えながら働き続けるだけでも大変なのに、自分が受けてきたことを説明し、さらに病院側の対応と向き合うことは、非常に大きな負担でした。 もし病院が、自分の病気を「個人的な問題」と片づけ、あるいは不正会計の問題も曖昧に処理しようとしているのだとすれば、自分は守られないのではないか、むしろ不利に扱われるのではないかという不安が強くなりました。 私は、仕事そのものだけでなく、病院との関係性そのものに疲弊していったと思います。 16 新型コロナウイルス対応による悪化
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私の病状が決定的に悪化したのは、令和2年12月から令和3年1月末頃にかけての、新型コロナウイルス感染症の院内クラスター対応の時期でした。私は令和2年12月から令和3年2月にかけて、感染対策等が十分に確立していない中で病院内の最前線で勤務し、その心労によって体調が悪化し、令和3年5月から休業しました。 令和2年12月中旬に院内クラスターが発生し、同月中旬から令和3年1月31日まで、私は、幾度となくレッドゾーンに立ち入り、新興感染症に対して最前線で勤務しました。令和3年2月1日に外来診療が再開した後も厳戒態勢が続いていていました。 病院側は、「対策は整っていた」と主張しています。しかし、防護対策は試行錯誤の中で行われており、しかもこの頃の医療従事者はまだ予防接種を受けておらず、職員のリスクが十分に低減されていたとはいえなかったのです。病院自身が「日々の状況に応じて業務指示等の見直しを行っていた」と主張しているように、「確立した対策」があったとはいえません。私の初回ワクチン接種日も令和3年3月11日であり、このときまでワクチン接種もなく勤務をしていたのです。 私の実感ですが、当時の現場は非常に張り詰めていました。感染の危険がある区域に繰り返し立ち入りながら業務を続けること、自分が感染するかもしれないという恐怖、周囲に感染させてしまうかもしれないという不安がありました。しかも、病院全体としても対応が手探りの部分が大きく、現場にいる者に強い緊張がかかっていました。この時期は第三波であり、感染様式等もなお不明な点が多く、連日の死亡報道もある中で不安を感じながら業務に当たっていました。 さらに、私にとって大きな負担となったのは、クラスター発生直後の指示系
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統の混乱と、それに伴う病院関係者Gとの口論でした。 令和2年12月14日夜、放射線部内に感染者が出たことを受けて、翌日以降の勤務については追って病院関係者GからグループLINEで指示をするとされていたものの、同日21時頃に1週間の出勤停止者と勤務者が示された以外、具体的な業務指示はありませんでした。私は勤務する側の人間であり、日付が変わった0時頃から3時頃まで、病院関係者Lに直談判するための対策資料を作成しました。 当時、放射線部では、私を含む6名の診療放射線技師で1週間、当直を含む業務を回さなければならない状況でした。放射線治療ができる人員は残っておらず、放射線治療を中断すると治療計画が狂うため、周辺病院への転院や患者への説明等の措置が必要でした。核医学検査についても薬剤のキャンセルや予約患者への連絡が必要でした。また夜間当直者や日中の装置配置についても、残された人員が扱える装置を踏まえて再検討する必要がありました。 私は、本来であればそのような資料を作るのは自分の役割ではなく、越権行為になり得ることも分かっていました。 それでも、翌日以降の体制や業務停止・継続の判断、患者への連絡や転院調整を誰かがすぐに整理しなければ、特に放射線治療や核医学検査の患者さんに重大な不利益が及ぶと考えました。私は、これまで病院関係者AやJから「迷ったときは患者さんのためになる行動を取れ」といった趣旨の指導を受けてきたことも思い出し、患者さんのために今必要なことをまとめるしかないと判断しました。病院関係者Gから令和2年12月15日以降の業務等について連絡があれば、そもそも私が対策資料を作成する必要はなかったのです。 私は、念のため翌朝8時30分まで病院関係者Gから具体的な指示がないことを確認した上で、病院関係者Lに「渡したい対策資料がある」と電話し、代
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理で駆け付けた病院関係者Vにその資料を手渡しました。 ところが、この行為に対して病院関係者Gは激怒し、その日の昼頃に電話で口論となりました。 私としては、感謝されたいと思って動いたわけではありません。ただ、患者さんに不利益が出ないように、残された人数でどう回すかを必死で考え、必要最低限の整理をしただけです。それにもかかわらず、越権行為として強く叱責され、口論にまでなったことで、私は「こんな緊急時でさえ、患者のために動いたことが責められるのか」と感じました。このことは、クラスター対応そのものの恐怖とは別に、非常に大きな精神的負担になりました。 しかも私は、このクラスター対応の最中、休日を返上し、日勤から当直まで緊急対応を行いました。そのため、翌朝には帰宅させてほしい旨を伝えましたが、その際に病院関係者Gから「診断書を盾にとって脅しだね」と言われました。この発言は、病気を抱えながら現場対応を続けていた私にとって非常に屈辱的であり、強いショックを受けました。私は当時すでに精神障害を抱えており、病院側もそのことを認識していました。そのような状態でクラスター対応と病院関係者Gとのトラブルが悪化要因となりました。 私はもともと統合失調症を発病しており、病院側もそのことを知っていました。そのような状態の私が、このような極度の緊張を伴う感染対応に最前線で従事し、さらに指示不在の混乱の穴埋めまで行い、その結果として上司と口論し、休息の申出に対してまで侮辱的な言葉を受けたことは、病状の悪化に大きく影響したと思います。被告は私が統合失調症を発病していたことを認識していた以上、悪化防止のために労働条件の適正化や負担軽減などの措置を講ずべき義務があるのに、そのような措置はしてくれなかったのです。
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17 令和3年3月頃からの明らかな悪化 令和3年3月頃になると、私は自分でもはっきり分かるほど状態が悪くなっていました。令和3年3月に急な午前半日欠勤が5回あり、主治医には幻聴、視線恐怖感、倦怠感の継続に加え、同年3月19日には「疲れた時にCT室内にロードバイクが見えた」と幻視も訴えていることから、令和3年3月中旬を悪化時期と推定すべきです。 令和3年3月に体調不良による午前有給休暇が5回に増え、それまでの月の0回から2回程度より明らかに増加しました。病院長も「フルタイム勤務がもうきつそうである」との情報を部署から得ていました。 私は、この頃、ただ疲れているというより、明らかに勤務継続が難しくなっていると感じていました。倦怠感から11時間~12時間の睡眠時間を必要とし朝起きること自体がつらく、職場に向かう前から体がもつのか強い不安があり、勤務中も倦怠感が強く、集中力も落ちていました。 幻聴は以前からありましたが、この頃にはそれがより気になるようになり、さらに幻視のような症状まで出てきたことで、自分でも危険な状態に入っていると感じました。 18 休職の打診と休職開始 令和3年3月31日、私は病院長および事務長との面談において、病院側から休職を打診され、それに同意しました。同年4月9日には産業医から主治医に対して同年5月1日より休職措置を取る旨の連絡がありました。 病院関係者Lが「休息を取りつつ体の回復を図るべきで、今の状態のまま続けるのはリスクだ」といった趣旨の発言をし、私がこれに同意したとされています。
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このときの私は、もう限界に近い状態でしたので、休職を勧められたこと自体には、正直なところ「やっと止まれる」という気持ちもありました。しかし同時に、仕事から離れることへの不安も非常に大きかったです。 私は長く病院で働いてきましたし、自分の居場所や社会とのつながりの多くを仕事に依存していました。そのため、休職に入ることは、自分の生活や将来が大きく揺らぐことを意味していました。それでも、令和3年5月1日から私は休職に入りました。この段階で、私はもう通常勤務を続けられる状態ではありませんでした。 19 自然退職扱いの告知 休職に入った後も、私は自分の病気が業務に起因するものであり、労災であると考えていました。したがって、休職期間が経過したからといって当然に退職になるとは考えていませんでしたし、少なくとも病院側は、その点を慎重に扱うべきであると思っていました。 しかし、令和3年10月25日、私は病院側から、同年10月31日付で私病傷休職期間満了に伴い自然退職扱いとする旨の告知を受けました。 私は、この通知を受けたとき、非常に強いショックを受けました。自分は業務によって精神障害を発病し、さらに悪化させたと考えているのに、病院はそれを前提に保護するのではなく、私病として処理し、休職期間満了を理由に雇用関係を終了させようとしていると感じたからです。 私は退職届や退職願を提出しておらず、提出を求められた際にも拒否しています。本件疾病の業務起因性が認められれば労働基準法19条違反となり自然退職扱いは無効です。 これは自分の意思による退職ではなく、一方的に職場から切り離されたとい
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う認識です。 長く働いてきた病院から、そのような形で雇用関係を終わらせられたことは、私にとって大きな精神的苦痛でした。私は病気によって苦しみ、治療を続け、仕事を離れざるを得なくなっただけでなく、その後にまで「あなたはもう病院の人間ではない」と言われたように感じたのです。 20 現在の思い 私は、平成27年に統合失調症を発病して以降、長期間にわたり通院と治療を続けています。精神科初診の平成28年4月から現在まで治療は継続中です。 私は、もともと真面目に働き、病院に貢献したいと考えて勤務してきました。その結果として、過重な業務、強い叱責、不適切な行為への関与の強要、発病後の不十分な配慮、感染症対応による悪化、そして最後には自然退職扱いという経過をたどったことについて、今でも深い無念さを感じています。 私が本件訴訟で求めているのは、単に金銭だけではありません。自分が受けたことが現実に存在したこと、自分の病気が単なる私病ではなく業務に起因するものであること、そして病院の対応が適切ではなかったことを、きちんと明らかにしたいという思いがあります。 21 この件によって私が受けた苦痛について 私は、被告病院に入職した当初、診療放射線技師として誠実に働き、病院や患者さんの役に立ちたいという気持ちで勤務していました。 CT専従業務についても、期待されて任された仕事である以上、自分なりに責任を持って取り組んできたつもりです。
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しかし実際には、私は、達成困難な件数目標、長時間労働、連続勤務、待機勤務や宿日直による強い拘束、上司からの人格否定的な叱責、そして放射線漏洩や不適切行為の問題に対する不安の中で働き続けることになりました。そうした状況が積み重なった結果、私は統合失調症を発病しました。 私にとって最もつらかったのは、単に忙しかったということではありません。自分なりに真面目に働いているつもりでも、侮辱的な言葉で叱責され、努力や人格そのものまで否定されるように感じたこと、危険や不適切さを感じて相談しても真剣に受け止めてもらえなかったこと、病気を発病した後も十分に守られたとは思えなかったことです。 私は、病気になったことで、それまで当たり前にできていたことができなくなり、自分自身が壊れてしまったような感覚を持ちました。 仕事の中で受けた強い緊張や恐怖は、勤務を離れた後も簡単には消えず、「また同じようなことが起きるのではないか」「自分はもう元には戻れないのではないか」という不安を抱え続けています。 22 現在の生活への影響 私は、平成28年4月に精神科を受診して以降、長期間にわたり治療を継続しています。現在まで継続的な通院が続いており、障害年金2級、精神障害者保健福祉手帳2級の状態です。 この病気によって、私の生活は大きく変わりました。以前のように、心身ともに安定した状態で継続的に働くことが難しくなり、日常生活においても、視線恐怖感や疲労感、集中力の低下、自生思考などに悩まされることがあります。体調が悪いときには、外出することや人と接すること自体が大きな負担になります。
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また、高い集中力を必要とする車の運転はできなくなりましたし、包丁も、自傷につながる危険があるため持てなくなりました。 このように、病気の影響は仕事面だけでなく、日常生活のごく基本的な部分にまで及んでいます。 私はもともと、健康管理も兼ねてジムに通い、ロードバイクにも乗っていました。ところが、発病後は、視線恐怖感や集中力の低下などのために、それらを継続することが難しくなりました。 本来であれば、運動は心身の健康維持に役立つはずですが、私の場合は、病気の症状によって、そのような習慣すら維持できなくなってしまいました。 さらに、抗精神病薬の副作用による強い空腹感にも長く苦しんでいます。空腹感は常につきまとい、自分で食事量をうまくコントロールすることが難しい状態が続きました。その結果、もともと約67キロだった体重が約95キロまで増加しました。代謝の面でも悪影響が出ており、現在は初期の糖尿病といえる状態にあります。 このことは、精神障害そのものの苦しさに加えて、身体面でも健康を損なっていることを意味しており、私にとって非常に大きな負担です。 また、私は長年かけて身につけてきた診療放射線技師としての職業生活を継続できなくなりました。これは、収入や生活基盤の問題にとどまらず、仕事を通じて築いてきた自尊心や社会とのつながりを失うことでもありました。自分の職業人生が、このような形で断ち切られてしまったことに対する喪失感は非常に大きいです。 私は平成27年に、27歳のときに発病しました。本来であれば、診療放射線技師としてさらに経験を積み、人生の基盤を固めていくはずの時期でした。ところが、病気を抱えながら働き続けた末、令和3年、33歳のときに自然退
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職扱いとされました。 27歳から33歳にかけての年月は、社会人としても人生全体としても極めて重要な時期だったと思います。その大切な時期が、病気との闘いと、職場との問題への対応によって大きく損なわれたことに、強い無念さがあります。 しかも、その後も私は、本件訴訟や労災に関する対応を続けざるを得ず、30代という本来であれば仕事や私生活を充実させ、将来の土台を築くべき貴重な時間を、回復や再出発のためではなく、自分が受けた被害を立証し続けるために費やさざるを得ませんでした。 私は、このことを、単に過去の被害が続いているというだけではなく、自分の30代そのものが本件によって大きく侵食されてしまったものと感じています。 さらに、私は今でも、「あのときもっと守られていれば、ここまで悪化しなかったのではないか」「病院がきちんと向き合っていれば、違う結果になったのではないか」という思いを捨てきれません。 その意味で、本件による被害は、発病した時点だけで終わったものではなく、その後の人生全体に長く影響を及ぼし続けているものだと感じています。 23 自然退職扱いに対する思い 私は、自分の病気が業務に起因するものであると考えており、そのことは本件訴訟でも争点になっています。にもかかわらず、被告病院は、私を私病休職として扱い、最終的には自然退職扱いとしました。私は退職届や退職願を提出しておらず、自然退職扱いの有効性を争っています。 私は、この自然退職扱いによって、病気によって苦しめられたうえに、最後には病院から捨てられたと感じました。
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私は、自分の意思で病院を去ったわけではありません。むしろ、病院での業務によって心身を害し、その結果として働けなくなったのに、最後はその責任を十分に認められないまま、雇用関係まで失うことになりました。 このことは、私にとって非常に大きな精神的苦痛でしたし、今でも納得できない思いがあります。 24 裁判所に伝えたいこと 私は、本件で、自分が特別扱いを受けたいとか、過大な要求をしたいと思っているわけではありません。 ただ、自分が病院でどのような状況に置かれ、どのような負荷を受け、その結果として統合失調症を発病し、さらに悪化し、最終的に職を失うに至ったのかを、事実として正しく見ていただきたいと思っています。 被告病院は医療機関であり、本来、患者だけでなく、そこで働く職員の健康や安全にも十分配慮すべき立場にあります。 特に、私が発病した後、少なくとも病院側が私の精神障害を認識した後は、業務負担や勤務環境について、より慎重な配慮が必要であったはずです。 それにもかかわらず、私は十分に守られず、最終的には悪化し、休職し、自然退職扱いとなりました。 私は、この経過全体を通じて、被告の対応が適切であったとは到底思えません。裁判所には、表面的に「忙しい職場だった」「厳しい指導だった」という程度の話としてではなく、私が長期間にわたり実際に受けた心理的負荷と、その結果として人生に生じた重大な変化を、ひとつひとつ丁寧に見ていただきたいと思っています。
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25 被告への思い 私は、本件訴訟を通じて、単に被告を責めたいとか、追い詰めたいという気持ちだけで動いてきたわけではありません。 むしろ、被告には、自らがこれまで行ってきたことを真摯に受け止め、改めるべき点は改め、二度と同じようなことを繰り返さないでほしいという思いを強く持ってきました。 そのため私は、令和7年6月、被告に対し、「今後について」と題する書面を、公益通報書兼和解打診書として、私個人の名義で送付しました。 その書面には、私が把握していた問題として、関連クリニックや関連病院を含めた無資格レントゲン撮影の事実、医療死亡事故の疑いがある事例が隠蔽されている問題、放射線漏洩による施設基準違反とそれに伴う不正請求の問題、当直許可書違反に伴う多額の未払賃金の問題、CT撮影者改竄問題を公表せずに患者に対する返金がなされていない問題、同意を得ないまま行われた退職金にも関わる基本給切下げの問題など、法的問題や行政処分に至る可能性のある事項を、証拠を添えて記載しました。 私がそのような書面を送ったのは、被告に対して混乱や打撃を与えたかったからではありません。 病院や関連クリニックに通う患者さんへの影響、そして本件とは無関係の善良な職員まで巻き込まれることをできる限り避けたいと考えたからです。私は医療従事者として、もしこれらの問題が何の是正もされないまま表面化すれば、患者さんや現場職員にまで深刻な影響が及ぶ可能性があると思っていました。だからこそ、まずは被告自身が問題に向き合い、内部で適切な対応を取ることを期待しました。 しかし、被告から返ってきたのは、問題の中身に真摯に向き合う姿勢ではあ
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りませんでした。 私が告発等の具体的な行動を起こした場合には、刑事告訴や民事訴訟も考えている旨が、弁護士を通じて伝えられました。 私は、この対応に大きな失望を感じました。私としては、被告に自浄作用を働かせ、必要な是正をしてほしいという思いから行動したのであって、いたずらに対立を深めることを望んでいたわけではありません。それにもかかわらず、問題に向き合う対応が取られなかったことは、大変残念でした。 私は、被告が自ら問題を認め、改善し、患者さんや職員にこれ以上不利益が及ばないようにすることが、最も望ましい解決だと思っています。 被告には、今からでも、自らのしてきたことを真摯に受け止め、必要な是正と再発防止に向き合ってほしいと考えています。 それが、私に対する最低限の責任であると同時に、これからも被告の医療機関を利用する患者さんや、そこで働く職員に対する責任でもあると私は思っています。 26 結び 私は、本件により、健康、仕事、生活、将来への見通しに大きな影響を受けました。 もし、被告病院が、私に対して適切な業務配分をし、人格を傷つけるような叱責を避け、安全に働ける環境を整え、発病後も十分な配慮をしていれば、このような結果にはならなかったのではないかと強く感じています。 私は、自分が受けたこと、失ったもの、そして今もなお続いている苦しみについて、裁判所に正しく理解していただきたいと思い、この陳述書を提出します。 以上